2026年の干支は、「午(うま)」です。そういうことで、馬に注目が集まっています。
そこで本記事では、午年にちなんで、馬の慰霊碑を取り上げ、その概要や、それが建てられた理由とともに、仙台市内にある馬の慰霊碑をご紹介します。
哺乳動物の慰霊碑・供養碑のうち、最も多くつくられたのが、馬の慰霊碑・供養碑です。
現在、日本全国に多く残っている、馬の慰霊碑や供養碑は、明治時代以降につくられたものです。これらの碑は、日清、日露、日中、アジア・太平洋戦争に動員された軍馬のために建てられました。戦争において、馬は乗用(乗馬)だけでなく、軍需物資や食糧などを運ぶ輸送用としても利用され、特に悪路では人間とは比べものにならない力を発揮しました。時代が進むにつれ、欧米ではトラックなどに取って代わられるなか、日本の機械化は遅れていたため、日本陸軍にとっては、馬は依然として重要な輸送手段でした。
日中戦争およびアジア・太平洋戦争では、60万頭~70万頭もの軍馬が戦場に駆り出されたともいわれますが、そのほとんどが故国の土を再び踏むことはありませんでした。
長野県波田町(はたまち。現在の松本市波田)にある「征清軍戦役馬 馬頭尊」は、明治時代以降につくられた馬の慰霊碑の中で古い碑の1つです。日清戦争勃発時に馬を供出した飼養者の百瀬元弥氏は、1895年(明治28年)、愛馬のために「馬頭尊」と刻んだ石碑を建てました。それ以後、軍馬への武運長久(戦いでの幸運が長く続くこと)の祈願、慰霊、感謝の表明のために、多数の軍馬の碑が日本各地に建てられました。
また、従軍した兵士にとって、馬は、過酷な戦場で苦労を共にし、死に直面しながら行動する運命共同体であり、戦友でした。兵士は、戦死した愛馬のたてがみを故郷に送って、家族に慰霊碑の建立を託すケースや、自身が命からがら帰還したあとに慰霊碑を建てるケースがありました。兵士の愛馬を思う気持ちは、飼養者のそれに勝るとも劣るものではありませんでした。
飼養者も兵士も、愛馬とは固い絆で結ばれていました。その絆は、愛馬との死別によって更に強くなっていったのです。
仙台市内にも、馬の慰霊碑があるのをご存じでしょうか。
最後に、仙台城三の丸跡に建つ「仙台市博物館」(仙台市青葉区川内)の入口手前付近に設置された2つの碑を、紹介したいと思います。
「満州事変軍馬戦没の碑」は、三の丸のお堀(長沼)の北側に立っています。満州(現在の中国東北部)から帰還した仙台の第二師団が、戦没した軍馬の霊を慰めるために、1933年(昭和8年)に建てました。その年の暮れには、慰霊祭が執り行われています。
現在の石碑は、戦後に移設されたものです。元々は、大手門脇櫓(わきやぐら)のすぐ近くにありました。大手門脇櫓は、大手門もろとも、1945年(昭和20年)の仙台空襲により焼失しました。2025年に仙台市教育員会が実施した、大手門跡とその周辺の発掘調査では、石碑の基礎部分が確認されました。
石碑には、「昭和六年九月十八日以降無言ノ戦士トシテ満洲事変ニ参加セシ第二師団下諸部隊戦病死馬八十七頭ノ霊ヲ合祀ス 昭和八年十二月 正六位勲六等 四竃仁邇書」と刻まれています。碑の末尾にある四竃仁邇(しかまじんじ。1863-1941)氏は、著名な馬政家の次男として仙台で生まれ、音楽教育と教員養成に尽力しました。晩年は、宮城県立の障がい者の学校長を10年にわたり務め、「関係教育の父」と慕われました。書道家としても高名でした。
「満州事変軍馬戦没の碑」からレンガの道を西の方に少し歩くと、ひときわ大きい石塔が見えてきます。それが「軍馬・軍用動物彰忠塔」です。日清戦争から日中戦争の最中まで動員された軍馬と軍用動物の功労を顕彰するために、1940年(昭和15年)、宮城県産馬畜産組合らによって、追廻(おいまわし)練兵場に建てられました。
「軍用動物」とは、犬とハトのことです。戦時には、馬のほかに、多数の犬や伝書バトも軍用に利用されました。なお、旧仙台陸軍墓地の常盤台霊苑(仙台市青葉区小松島)には、「満洲独立守備歩兵第二大隊慰霊の碑」の横に「軍馬・犬・鳩供養塔」があります。
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