愛くるしい目、キュートなおしり……。
いつも可愛らしい姿を見せてくれるハムスター。
ハムスターは、ペットとして抜群の人気があります。ゴールデンハムスター、ジャンガリアンハムスターなどがおなじみですね。
今回は、ハムスターの冬眠に関する北海道大学の最新研究成果(https://www.hokudai.ac.jp/news/pdf/231018_pr.pdf)をご紹介します。
そもそも、ハムスターは、冬眠するのでしょうか。
実は、ペットとして飼われているハムスターのほとんどの種類は、冬眠しません。
しかし、イラクからブルガリアにかけての乾燥地や傾斜地にすむ、野生のゴールデンハムスター(シリアンハムスター)は、冬眠することが知られています。秋の終わりから冬の寒さの厳しい時期に、食物をほお袋に詰めて運び、地下の巣穴で冬眠するのです。冬眠期間中は、時々目覚めて、巣穴の中に貯蔵した食物を食べて生き延びます。
他方、野生のジャンガリアンハムスターやチャイニーズハムスターは、冬眠しません。
哺乳類や鳥類のように、常にほぼ一定の体温を維持する動物(恒温動物)は、寒さが厳しく餌の不足する冬の時期になると、活動を停止して冬ごもりに入ります。哺乳類では、約4070種のうち、コウモリ、シマリス、クマなど、約240種が冬眠すると考えられています。これらの動物は、生きるために体温を低くしてエネルギーを節約する、驚異的な生命維持システムを備えています。
しかしながら、冬眠は、冬季の消費エネルギーを節約するだけのシステムではないことがわかってきました。それを突き止めたのは、北海道大学の研究グループです。
北海道大学の山口良文教授らの研究グループは、温度や明るさを変えられる環境下でゴールデンハムスターを飼育して、体温を調べました。
その結果、ゴールデンハムスターが冬眠から目覚めた直後に、周囲(外界)が冬の環境のままであるにもかかわらず、体温の変動リズムが「夏型」になることがわかりました。
野生のゴールデンハムスターの体温リズムは、季節によって変化することが知られています。日照時間の長い夏季では、暗くなる頃に体温が高まり活動しやすくなる「夏型」のリズムになります。一方、日照時間の短い冬季では、暗くなってから数時間遅れて体温が高まる「冬型」のリズムになります。
本研究の結果から、ゴールデンハムスターは、冬の環境に合わせて冬型の体温リズムで冬眠を始め、冬眠を終了する頃には自発的に夏型の体温リズムに戻って活動を再開することがわかりました。これは、ゴールデンハムスターが、巣穴から出てくる時の日長にあらかじめ適応しているためです。それにより、冬眠を終えて地上に出ても、ゴールデンハムスターは、”時差ぼけ”や“季節ぼけ”とならずに、春に活動しやすくなると考えられます。
このように、哺乳類の冬眠は、消費エネルギーを節約して冬を耐え抜くその場しのぎのものではなく、冬眠後、体内のリズムを春の活動期に合わせる仕組みを含むことが示唆されました。
人間は冬眠しませんが、動物の冬眠に類似する生理現象はいくつか知られています。そのうちの一つが、冬季うつ症です。冬季うつ症は毎年、秋から冬にかけて、うつ病に似た症状が現れる病気です。具体的な症状としては、無気力状態になる、集中力や活動性が低下する、朝起きられなくなる、炭水化物を過剰摂取するなどが挙げられます。動物の冬眠でも、これらに似た特徴が観察されています。
本研究で得られた知見を今後さらに検討していくことにより、冬季うつ症のメカニズムなどの解明につながる可能性があります。
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皆さまにとって、ペットはどのような存在ですか?
現在は、「ペットは家族のような存在」と考える飼い主の方が多くなっています。
そのような大切な存在ですから、「ペットの死にはきちんと向き合いたい」という飼い主の方も増えています。
にわかには信じがたいことですが、かつては、ペットを家族として扱ったり、ペットを人間と同様に供養・葬送したりすることが「おかしい」と感じられていた時代がありました。
今回は、ペットを巡る時代による世間の意識の変化について、お話ししたいと思います。
一般社団法人 日本ペットフード協会によると、2022年の日本国内で飼育されている犬と猫の数は、約1590万匹と推計されるとのことです。その数は、2022年4月1日現在の15歳未満の子どもの数1465万人(総務省統計局によるデータ)を上回ります。私たちは現在、子どもの数よりも犬・猫の数のほうが多い社会に暮らしています。
人間とペットとの関係も、時代とともに変容しています。番犬やネズミ駆除などの人間の暮らしに役立たせることを目的とした時代から、「かけがえのない家族の一員」と認識される時代へと変わりました。このことは実際に、さまざまな調査結果からも明らかになっています。例えば、アイペット損害保険株式会社が、犬・猫を亡くした経験のある方1000人を対象に2023年に実施した「ペットロスに関する調査」では、8割近くの方がペットを家族のような存在と捉えていました。
今やペットは、大切な家族の一員として、なくてはならない存在となりました。
一方、明治から昭和時代にかけては、ペットの供養・葬送は、世間の目に違和感のある行為に映りました。それに加えて、ペットを家族のような存在と捉える考え方は、現在とは違い、主流ではありませんでした。
例えば、明治13年(1880年)の読売新聞の記事には、かわいがっていたペットの犬[狆(ちん)]が亡くなった際に、飼い主夫婦が僧侶を呼んで読経してもらい、遺体を東京・深川の墓地に埋葬した、という話題が掲載されています。記事の最後は、愛犬家夫婦を「よっぽどの変わり者」と結んでいます。明治から昭和時代にかけて、新聞には、ペットの供養・葬送に関する話題がいくつも掲載されていました。こうした話題が新聞に登場することからも、ペットに対し人間と同様に供養して墓地に埋葬する行為は当時、世間から奇妙な目で見られていたのです。
新聞だけでなく、テレビドラマにも、ペットを家族のように扱うことに抵抗を示す人がいた世の中だったことがうかがえる描写がありました。
昭和48年(1973年)に日本テレビ系列で放映された刑事ドラマ「太陽にほえろ!」(石原裕次郎ら出演)では、失踪した犬を懸命に探す高齢の飼い主に対して、「犬なんか探して何になる」という世間の冷たい反応が描かれています。昭和48年の時点では、飼い主がペットと家族同然に接することが、滑稽な出来事として処理されていました。放映当時の視聴者には、それほど違和感がなく受け入れられたとしても、現在の感覚からすると、違和感を覚えてしまいます。
ペットに対するイメージが変わってきたのは、1988年から1991年にかけての、いわゆる「バブル期」の頃からです。
この頃になると、ステータスとして、ラブラドールやシベリアンハスキーといった大型犬を飼うことが流行しました。
また、バブル期には、佐々木倫子作の漫画『動物のお医者さん』(白泉社)のコミックスが2000万部以上を売り上げ、人気を博しました。この作品では、ペットの気持ちをせりふとして書き込むことにより、ペットがまるで人間であるかのように描写されていました。後にテレビドラマ化もされた『動物のお医者さん』は、「ペットの人間化」をさらに促進させたといえます。
その後、バブルは弾け、大型犬の流行は廃れます。しかし、トイプードルやチワワを中心とする小型犬ブームとなった現在でも、ペットは家族の一員として認識され続けています。
仙台市泉区の「いずみペット霊苑」では、ペットの火葬、納骨、供養まで、スタッフ一同、心を込めてサポートいたします。
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仙台市宮城野区西部にある榴岡公園は、四季を通して仙台市民に広く親しまれ、市内有数の憩いの場になっています。
今からおよそ830年前、榴岡公園の一帯は、源頼朝が率いる鎌倉方が東北地方に攻め入ったときに、奥州藤原氏最後の当主、藤原泰衡が陣をおいた場所としても知られています。「国分原鞭楯(こくぶがはらむちだて)」。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』には、そのように記されています。「国分原」が宮城野原、「鞭楯」が現在の榴岡公園の辺りとされています。
榴岡公園は、仙台駅から東に1 kmほどの場所にあります。仙台藩四代藩主、伊達綱村が京都から取り寄せたシダレザクラなど1000本あまりをこの地に植えたのが始まりといわれています。都市公園としては1902年(明治35年)、宮城県により開設されました。この地は、それよりも前から、つつじの名勝として広く伝えられてきました。
1989年(平成元年)に「日本の都市公園100選」に選ばれた同公園内には、約300本のサクラのほか、ウメ、ツバキ、フジ、ハギなどが植えられています。「つつじがおか」というだけあって現在も、つつじは10種類ほど植えられています。こうした植物たちが、季節ごとに公園に彩りを添えている。そう感じるだけでも、公園を歩く楽しみがグンと増すのではないでしょうか。
伊達政宗も、仙台城の築城候補地としていました。奥州藤原氏が本陣を構えた地に城を建てようとしたとは。何か不思議な縁を感じずにはいられません。
1189年(文治5年)、源頼朝が率いる鎌倉方と奥州藤原氏の軍勢との戦いの火ぶたが切って落とされます。
奥州藤原氏の平泉方は、伊達郡阿津賀志(あつかし)山(現在の福島県伊達郡国見町)から阿武隈川に至る長大な堀をめぐらせ、藤原泰衡の腹違いの兄にあたる国衡を大将として、鎌倉方の軍勢を迎え撃ちます。阿津賀志山の合戦は、双方数万の軍勢が相対。奥州合戦最大の激戦となりました。
一方、泰衡は、名取川と広瀬川を防衛ラインとして、その北側の国分原鞭楯に布陣。国衡の後方の援護にあたります。広瀬川河原の鎧淵(よろいぶち。現在の宮城県仙台市太白区、宮沢緑地の対岸付近)にも、柵をつくって陣を構えました。
阿津賀志山の合戦で国衡は奮戦しましたが、鎌倉方に陣は突破され、逃亡した国衡は柴田郡大高宮(おおたかみや。現在の宮城県柴田郡大河原町)付近で討ち取られました。頼朝率いる鎌倉勢は、鎧淵も突破して国分原鞭楯に迫ります。兄国衡が敗退したことを知った泰衡は、鎌倉方と戦うことなく、鞭楯の陣地から撤退。平泉の館を焼き、蝦夷々島(えぞがしま。現在の北海道。厚真町方面ともいわれています。)を目指して逃走途中、比内(ひない)郡贄柵(にえのさく。現在の秋田県大館市)で、家臣の裏切りによって殺害されました。
こうして、四代100年にわたる奥州藤原氏は滅亡しました。
1950年(昭和25年)に、中尊寺金色堂須弥壇(しゅみだん。仏像を安置する台座)の中に800年間安置されてきた奥州藤原氏四代のミイラ化した遺体が学術調査されました。
奥州藤原氏最後の当主、四代泰衡は、首級(頭部)が納められています。これは、第四頸椎(けいつい)で斬首された首級でした。父の三代秀衡の棺(ひつぎ)のそばに置かれた黒漆塗りの木製首桶(くびおけ)の中から、良好な保存状態で見つかりました。当時の調査担当者によれば、その顔は、ほとんど生前そのままのようだといいます。丸顔で、ふっくらとした頬であって、いかにも若々しく見えたとのことです。歯のレントゲン調査の結果などから、泰衡の没年齢は20歳から30歳と推定されています。若い当主だったことは間違いないでしょう。
しかし、頭や顔には多数の切り傷や刺し傷が見られました。泰衡殺害の状況を考えると、これらの傷は不自然と思えなくもありません。斬首される際に泰衡が首を激しく振って抵抗を試みたとか、誰の顔かわからなくなるくらいに切り刻んだ替え玉の頭部を「泰衡」として頼朝に差し出したとか、そんな説も唱えられているくらいです。
さらに、泰衡の首級を受け取った頼朝は、前九年合戦において源頼義が安倍貞任の首を懸けた儀式に倣い、眉間から太い鉄くぎを打ちつけました。金色堂に現存する泰衡の首級にも、眉間から後頭部を貫通する直径1.5 cmほどの小孔が認められました。これが、泰衡の首とする有力な証拠となったのです。
年齢が若く経験の面でも劣る藤原泰衡が、実力者の源頼朝と政治的駆け引きで渡り合い、合戦でまともに勝負するのは、酷だったのかもしれません。
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