いずみペット霊園・ペット火葬

〒981-3217 宮城県仙台市泉区実沢字上ノ原9番地

0120-730-940
お問い合わせフォーム

ペットに関する情報 ペットに関する情報

伊達政宗の最期と瑞鳳殿

2023年08月28日

初代仙台藩主 伊達政宗は、仙台市民にとって「郷土の誇り」とも言える存在です。
このたび、政宗が眠る瑞鳳殿の本殿が約20年ぶりに修復され、黒漆や金箔(きんぱく)などの装飾が輝きを取り戻しました。これにはきっと、政宗も喜んでいることでしょう。
今回は、伊達政宗の死去から遺体の埋葬に至るまでの経緯、瑞鳳殿の発掘調査から見えてきた政宗像をご紹介します。

政宗の遺体は、亡くなったその日のうちに江戸を出発。仙台へ

政宗は、1636年5月24日未明、江戸・桜田の仙台藩上屋敷(現在の東京都千代田区の日比谷公園内)で、70年の生涯を閉じました。死因は、一説には、胃がんともいわれます。
政宗の遺体は、家臣が事前に準備していた朱(しゅ)、水銀(みずかね)、石灰(いしばい)、塩で詰め固め、束帯の装束をまとわせたうえで、亡くなったその日のうちに、仙台へ向けて江戸を出発します。遺体を乗せたかごは、御供とともに、6月3日、仙台に到着。「北山五山」の1つである覚範寺で葬儀が執り行われた後、政宗が生前に見立てていた経ヶ峯(きょうがみね、宮城県仙台市青葉区)に遺体は埋葬されました。その翌年(1637年)、墓所の上に御霊屋(おたまや)が建立されます。この建築物が、のちに「瑞鳳殿」と称されるようになったのです。

身長約160センチ、血液型B型だった政宗

瑞鳳殿は、江戸時代初期における桃山様式の華麗な建築として、1931年に国宝に指定されました。
しかし、1945年の仙台空襲により惜しくも消失してしまいます。

戦後、再建を望む仙台市民らの声が高まった結果、再建工事が進められることになりました。
再建工事に先立って1974年から、墓所の発掘調査が実施されます。当時は、戦国大名のお墓の本格的な発掘調査は珍しいとあって、世間の注目を集めたのでした。
発掘調査では、墓室からは、政宗の遺骨と一緒に、たくさんの副葬品が出土しました。
さらに、遺骨の学術調査の結果、政宗の身長は159.4センチメートルであることがわかりました。これは、政宗が生きた時代の日本人男性の平均値でした。また、血液型は、B型であることも判明しました。

ところで、政宗は、幼少の頃、右目を失明し「独眼竜」と呼ばれたことは有名な話です。しかしながら、遺骨の学術調査では、政宗の遺骨の眼窩(がんか)に外傷などの異常は見られなかったことから、実際には、両眼が備わっていて「独眼」ではなかったことが明らかになりました。
※眼球が入っている、頭骨前面のくぼみのこと

「筆まめ戦国大名」の興味深い副葬品 《鉛筆》

政宗は、直筆の手紙が現存するものだけでも1000通を超えます。これは、同時代の武将と比べても際立っています。豊臣秀吉は約130通、徳川家康は約30通、そして、織田信長に至ってはわずか3通ほどです(いずれも、現存するもの)。政宗が「筆まめ戦国大名」や「筆武将」と呼ばれることがあるのも、そのためです。

筆まめ戦国大名の政宗だったからでしょう。瑞鳳殿(跡)の政宗の墓室から出土した副葬品のラインナップを見ても、文箱、筆入れ、硯(すずり)箱などの文房具類の多さがひときわ目につきます。
これらの副葬品の中には、鉛筆も含まれていました。このことは、一般にはあまり知られていません。
この鉛筆は、現在の鉛筆とは違って、筆に似た構造・形状をしています。輸入品の黒鉛と粘土とを練り合わせて成型した芯を細いササの先にはめ込み、実竹(じっちく)という竹の中身をくり抜いて作ったキャップを付けたものです[『伊達政宗の素顔 筆まめ戦国大名の生涯』(佐藤憲一著、吉川弘文館発行)などを参照]。政宗オリジナルの鉛筆だった可能性もあります。現在、仙台市博物館では、この鉛筆の複製品が見られます。ちなみに、複製品の鉛筆は、1988年、三菱鉛筆東北販売株式会社(宮城県仙台市若林区)の協力のもとで作られました。
新しいもの好きでもある政宗のことですから、鉛筆を使って手紙を書いていた可能性もあります。ですが、鉛筆で書いた政宗の手紙は、まだ発見されていません。

仙台市泉区の「いずみペット霊苑」では、ペットの火葬、納骨、供養まで、スタッフ一同、心を込めてサポートいたします。
仙台でペットの火葬のこと、お墓のことをお考えの方は、「いずみペット霊苑」までお気軽にご相談ください。

↓↓↓お問い合わせは、こちらからどうぞ↓↓↓
https://www.izumi-pet.com/contact_form/